【アメリカの歴史】23.[番外]アメリカ政党史概観3/5
19世紀には、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、アメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして巨大資本による独占体が成長し、カーネギー、モルガン、ロックフェラーなどの巨大財閥が、アメリカ経済を支配するようになった。
一方で19世紀後半からのヨーロッパでは、人口が急増し食糧難が頻発したため、このため新天地アメリカを目指して、南欧や東欧からの新移民が増加し、後発の彼らは都市部で、低所得者としてスラム街を形成した。また西海岸を中心に、清や日本からの東洋人の移民も多く発生した。
これらの人口構成の変化に、共和党の後塵を拝していた民主党は方針転換し、東海岸や西海岸の都市部の貧困労働者に生活保護などの福祉政策を行い、「連邦重視の大きな政府」を志向するようになった。これらの移民層も、定住し徐々に選挙権を持つようになったので、民主党は選挙で票を獲得するようになった。
1912年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党は候補者の一本化に失敗し、民主党の大統領候補のウッドロー・ウィルソンが、都市貧困層などの票を集めて大統領選に勝利する。もともと行政学者だったウィルソン大統領は、ニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。
ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発したが、アメリカ合衆国の中立の立場を表明して、 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に結びつけた。しかしドイツの潜水艦によるルシタニア号撃沈事件が起こり、米国の反独の国民感情が高まると、一転してウィルソンはドイツへの宣戦を布告する。
アメリカの参戦により戦況は一気に連合国側に傾き、大戦末期にウィルソンが「十四ヵ条の平和原則」を発表すると、疲弊しきったドイツ帝国は降伏する。ウィルソンは、「平和原則」で示した公正な態度のため、公正な調停を期待して「パリ講和会議」では重要な役割を担い、それは「ヴェルサイユ条約」の原則となった。
ウィルソンは、新外交の中心と位置づけた「国際連盟」を推進し成立にこぎつけたが、各論では戦勝国の思惑が錯綜し、国際連盟は実効性の乏しいものとされ、しかもアメリカ議会そのものが、モンロー主義を唱えて反対し、その批准を得られなかった。議会でウィルソンの提案が否決された後、ウィルソンは病が重篤となり、共和党のハーディングが次の大統領となったため、アメリカ合衆国の国際連盟加盟の道は断たれた。
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