2022年1月22日土曜日

【アメリカの歴史】13.大恐慌と第二次世界大戦(1939年〜1945年)

【アメリカの歴史】13.大恐慌と第二次世界大戦(1939年〜1945年)


 1929年にアメリカに端を発した「大恐慌」は、またたく間に世界を覆いつくし、1930年代を通してその時代を規定した。それは、資本主義そのものを震撼させる大事件であり、カール・マルクスの「恐慌論」がそのまま到来したと思われた。マルクスの恐慌論は、キリスト教の「終末論」の構造を内包しており、欧米のキリスト教徒には現実感を抱かせるものであった。

 未曽有の恐慌にみまわられた資本主義先進国は、例外なく大きなダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程については各国なりの事情が影響した。広大な植民地を領有する国々(イギリス・フランスやアメリカ)は、金本位制からの離脱や高関税による「経済ブロック化」によって、自国経済の保護に努めた。

 後発のソビエト連邦・ドイツ・日本といった全体主義国家ないし権威主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理する道を選び、全体主義政党や軍部の台頭が他の列強諸国との軋轢を生んだ。経済のブロック化は各国の協調体制や国際的調整を困難にして対立を深めた。

 大恐慌勃発時の大統領ハーバート・フーバーは、市場の自由に任せることで自動的に均衡が取り戻されるという「古典派経済学」を信奉していたため、効果的な対策を取れなかった。

 後任となったアメリカ民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心とした「ニューディール政策」によって乗り切ろうとした。これは、登場したばかりのジョン・メイナード・ケインズによる「ケインズ理論」を部分的に採用し、財政出動による有効需要の創出を試みるものであった。

 ニューディール政策はそれなりの成果を見せたかに思われたが、その規模が縮小されるにしたがって、成果は薄れていった。1930年代後半には再び危機的状況に陥った結果、恐慌からの本格回復は、第二次大戦の「膨大な浪費」を待つしかなかった。

 ルーズベルトのニューディール政策は、必然的に「大きな政府」となったため、連邦政府の力を全体的に強めることになった。そして、連邦政府内の権力中心として大統領の権威が強まった。ルーズベルトは、不況に苦しむ労働者や農民などに、様々な保護策を創設することで、一連の福祉政策を展開した。しかし、保守的な議員が多くを占める連邦議会により、ルーズベルト政権はニューディール政策の縮小を迫られた。

 1939年9月、ヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツのポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が勃発した。またたくまにフランスなど西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスもドイツの攻撃に疲弊し、英国首相ウィンストン・チャーチルはアメリカに参戦を求めたが、ルーズベルトは世論の支持を得られないとして、物資や武器を供給だけで済ませた。

 一方で、中国大陸への軍事侵攻を行う日本は、アメリカのアジアでの権益と衝突し、日本が東南アジアの油田に対する侵攻を始めると、「ハル・ノート」という強硬通告をし、ついに日本がハワイ真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。ルーズベルトは即座に参戦を表明し、世論の反対も立ち消え、同時に欧州戦線にも参画することになった。

 やがて欧州戦線では形勢が逆転し、フランスへのノルマンディー上陸作戦により、東西両軍からのドイツ挟撃が始まると、連合国側の勝利は決定的となった。日本とはミッドウェー海戦で戦況を反転させると、次々と太平洋の諸島を抑え、沖縄を過酷な戦闘で制圧して、本土の主要都市を爆撃し、日本の国家機能を壊滅させた。

 戦後世界では、アメリカが圧倒的な主役としてふるまうことになった。しかし、同じ連合国として戦ったソ連は、アメリカに対抗する核保有国となり、「東西冷戦」という構図で戦後世界が展開されることになる。

2022年1月21日金曜日

【アメリカの歴史】12.二つの大戦間の繁栄と崩壊(1918年〜1939年)

【アメリカの歴史】12.二つの大戦間の繁栄と崩壊(1918年〜1939年)


 ウィルソン大統領の主導によって国際連盟が設立されたが、孤立主義を守ろうとする議会の決議によってアメリカ自身は不参加という結果となった。ウィルソンの理想主義的な政策が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなった。

 経済では、戦場となり疲弊したヨーロッパに変わって、アメリカが世界の工場として大きな位置を占めるようになり、米国国民はかつてない繁栄を謳歌した。急速に消費社会に移行し、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となり、近未来的な世界が登場した。

 電気の普及で夜も明るく、電信電話での遠隔交流が可能となり、ラジオ・新聞というマスメディアの成長によって、市民がリアルタイムな情報を共有できるような情報化社会に向けて社会は進んだ。

 ラジオ・映画・自動車・化学品など、新しい産業と製品が登場し、テキサス州で膨大な埋蔵量の石油が発見されると、アメリカの石油生産は石油時代をリードするようになった。かくして、アメリカの製造業はかつてないくらい繁栄したが、その分、消費財の過剰生産も生まれ始めていた。

 一方で、労働者の賃金は相対的に低く抑えられ、また農産物価格の低下により農民の収入も増えなかった。それでも信用貸しの拡大などで消費経済の拡大は進み、証券市場も過熱気味に膨張した。都市部では、株価や地価が異常に高騰しバブル景気の様相を呈していたが、人々は消費経済の好調に浮かれて顧みることはなかった。

 この狂騒の20年代の社会的な歪みを性格付けたものが、合衆国憲法修正第18条とボルステッド法の組み合わせによる、いわゆる「禁酒法」であった。禁酒法がなぜ成立したかは幾つもの理由があるが、何よりその思想的背景にはアメリカ植民以来のピューリタニズム(清教主義)にあると考えられる。

 禁欲や勤勉を尊ぶピューリタニズムは、アメリカ合衆国の信仰の自由・民主主義などに大きく寄与したが、一方で、その潔癖性や純粋主義・原理主義は極端にブレることもあり、かつてはマサチューセッツのセイラム魔女裁判のような魔女狩りも起こったし、今でもダーウィンの「進化論」を学校で教えることを禁じている州もある。

 古くはアルコールは神からの贈り物であるが、その乱用は悪魔の仕業によるものだという一般的認識が広がっていた。そこへ「アルコールの災い」や酒浸り状態を問題視する宗教団体が登場し、アルコールの過度の乱用は身体的に有害だという医学的見地も示されるなどして、一部の州では禁酒運動が盛り上がった。

 1920年、アメリカで禁酒法が施行された。これは依存症患者が増加したためであり、酒場を地盤にした政治腐敗を減らす試みだとされた。しかし一方には、ユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が背景にあり、しかも新移民に酒造業を営むものが多く、それらの排斥が現実的な狙いでもあった。

 しかし禁酒法はザル法でもあり、アルコールの摂取そのものは禁止されておらず、家庭でのワインなどの醸造は許可されており、その上、カナダやメキシコとの長い国境を越えて、密輸で多量の酒がもちこまれ、密造酒も横行した。禁酒法施行以後に無数のヤミ酒場が生まれ、国全体の酒の消費量も以前より増加したともいわれる。

 禁酒法は、違法な密造酒や密輸酒を支配することで、アル・カポネに代表されるようなギャング組織に莫大な利益をもたらした。縄張り争いで、ギャングやマフィアの抗争事件は、大都市のいたるところで常態となった。ギャング間の銃撃戦では、数千人のギャングが死亡し、連邦の捜査官も数百の殉職者を生んだ。

 汚職や買収が横行し、有名なエリオット・ネスのアンタッチャブル(買収されないという意味)の物語が生まれたのも、このような状況下のことだった。また、J・F・ケネディの父親は、この時にマフィアと組んで密輸で大儲けし、それが息子たちを政治家にする資金となったとされる。

 未曽有の大好況の下で、このような社会の爛熟腐敗が進んでいたアメリカ社会で、1929年10月24日、突然「暗黒の木曜日」が起こり、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはの破綻を迎える。アメリカの「大恐慌」は世界中に波及し、やがて二度目の世界大戦へと突き進んでゆくことになる。

2022年1月20日木曜日

【アメリカの歴史】11.ウィルソンと第一次世界大戦 (1914年〜1918年)

【アメリカの歴史】11.ウィルソンと第一次世界大戦 (1914年〜1918年)


 1912年、民主党は大統領候補に「ウッドロー・ウィルソン」を指名し、ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。一方の共和党はウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトが対立し分裂、その結果、ウィルソンが大統領選に勝利した。

 ウィルソンは「ニュー・フリーダム」と呼ばれる進歩主義的国内改革を実行し、高率の関税を引き下げ、連邦準備法、連邦取引法、クレイトン法、農業信用法および1913年歳入法などを進めるなど、経済的な法制を整えた。また外交では、共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張した。しかし実態は変わらず、中南米諸国に強権的な介入をした。

 ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発したが、アメリカ合衆国の中立の立場を表明して、 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に結びつけた。しかし実際には、連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、決して中立の立場を守ったわけではない。

 これに対抗したドイツの潜水艦による、イギリス船籍の豪華客船ルシタニア号撃沈事件や、ドイツの秘密工作が暴露された「ツィンメルマン電報」事件などから、米国の国民感情が高まると、ウィルソンは1917年4月「ドイツへの宣戦」を布告する。

 ウィルソンは、南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債を発行して多額の戦費を調達するなど、急激に戦時体制を固めた。アメリカの参戦により戦況は一気に連合国側に傾き、第一次世界大戦末期の1918年1月に、ウィルソンは「十四ヵ条の平和原則」を発表する。疲弊しきったドイツ帝国は降伏し休戦協定を締結するに至った。

 ウィルソンはパリ講和会議に出席するためパリへ向かった。ウィルソンの「平和原則」で示した公正な態度のため、公正な調停を期待して熱狂的な歓迎を受けた。ウィルソンは、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に、講和会議の三巨頭として主要な案件に携わった。

 しかし十四ヵ条の平和原則は、それまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って組みなおすという内容だったため、会議参加国の既存利害からの反発を招いた。

 ウィルソンは、新外交の中心と位置づけた「国際連盟」を平和条約と不可分であると考え、熱心な主導者だった。他の戦勝国も、国際連盟創設自体は総論賛成としたが、それぞれに思惑があり、ひと筋縄ではいかなかった。

 1919年、最終的に国際連盟創設の提案が承認され、44か国が規約に署名した。ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績によりノーベル平和賞を受賞した。しかしそのアメリカ合衆国は、モンロー主義を唱える議会の反対により、国際連盟には参加できなかった。

 国際連盟は世界平和に貢献する国際組織として期待されたが、その実効性には大きな欠陥があった。一つは、アメリカをはじめとした有力国の不在であり、敗戦国だったドイツはのちに脱退、誕生したばかりのソ連は除名された。常任理事国だった日本とイタリアも1930年代に脱退してしまった。

 そして、国際連盟は全会一致の法則を採ったため、一国でも反対すれば重要な事項であっても何も決められず、迅速に有効な対応が取れなかった。さらに、国際連盟は軍事力が行使できず、有効な制裁手段がなかったため、国際連盟は単なる「話し合いの場」でしかなかった。

 ドイツともっとも激しい戦闘を展開した隣国フランスのクレマンソーは、敗戦国ドイツが二度と立ち上がれないような苛烈とも言える賠償を求め、穏便に調停を試みるウィルソンと対立した。結局、フランスの要望が通り、戦後その負担に耐えかねたドイツ国民の不満は、ヒトラーのナチスの勃興を支えることになった。

 第一次大戦で、ヨーロッパの列強は大きな損失を被って国力を落としたが、アメリカは直接の戦場にはならず、ヨーロッパへの武器や物質の供給で未曾有の経済的繁栄を迎え、世界の舞台の中心に躍り出ることになった。

2022年1月19日水曜日

【アメリカの歴史】10.帝国主義時代と国内の変貌(1890年〜1918年)-2

【アメリカの歴史】10.帝国主義時代と国内の変貌(1890年〜1918年)-2


 南北戦争から第一次大戦が始まるまでの間に、アメリカ合衆国は世界でも有数の工業国に成長した。土地と労働力が豊富で、天然資源や安価なエネルギーに恵まれ、そこへ潤沢な資本が蓄積されたために、第二次産業革命が強力に推進された。

 物の生産は手工業から工場制機械工業に移り、さらに技術の進歩や輸送機関の発展が拍車をかけた。大陸横断鉄道によって西部が開発され、誰もいなかった所に町や市場ができた。電報や電話など新しい通信手段は、広大なアメリカでも遠距離を隔てて意思統一ができるようになり、ヘンリー・フォードによるベルトコンベアシステムやフレデリック・ウィンスロー・テイラーの科学的管理法などの登場により、労働の仕組みにも大きな革新が起こった。

 並行して資本の集中が進み、トラストなどを結んで持株会社組織により多くの事業組織を支配するようになった。アンドリュー・カーネギー、ジョン・ロックフェラー、ジェイ・グールドのような大資本家が、大きな富と力を集中支配して財閥が形成された。

 主に1870年代や1880年代は、アメリカ合衆国において資本主義が急速に発展をとげた時代で、「西部開拓時代」とほぼ重複する時期であり、一獲千金を狙った拝金主義や、急速に富豪となった成金の薄っぺらい趣味の時代として、「金ぴか時代(金メッキ時代=Gilded Age)」などと呼ばれた。

 「金ぴか時代」とは、こうした経済の急成長と共に現れた政治経済の腐敗や不正を批判して、皮肉の得意な小説家のマーク・トウェインが命名した時代名称である。多くの政治家がカネで買収され、合衆国の政治は腐敗を極めた。

 チャールズ・ダーウィンの進化論が人間社会にも適用されて、自由競争・自然淘汰・適者生存を強調する「社会進化論」が一世を風靡した。そのような風潮のもとで、多くの人びとが成長と成功の夢に運命を託し、一代で巨富を築く「アメリカンドリーム」と称される成功物語や立身出世物語がもてはやされた。

 この時期のアメリカは、かつての農業的社会から工業や都市を特徴とする社会へと大きく変貌し、また、世界の表舞台へと躍り出た時期でもあった。1873年恐慌の後に第二次産業革命が進み、アメリカ社会のほんの一握りの超富豪階級が「産業の主役」となり、その事業、社会および家族の結びつきにより、イギリスに祖先をもつ「アングロサクソン&プロテスタント(WASP)」がアメリカ社会の上層を占めるという状況が支配的になった。

 都市の急成長は工業化や農業の拡大と歩調を合わせて、多くの新たな移民を生み出した。新規の移民の多くは、貧窮や宗教的理由で母国から押し出され者たちが、新たな仕事機会や開拓農民を目指してやって来た。かくしてアメリカは、未曾有の民族国家となった。しかし後発の移民たちは、民族としての生活基盤から切り離されており、先行して基盤を築いているアングロサクソン系などの後塵を拝し、社会の下層に組み込まれるしかなかった。

 大陸横断鉄道の建設では、東部ではアイルランドからの移民労働者が動員されたが、太平洋側の横断鉄道の建設には大量の中国人労働者(苦力/クーリー)が活用された。ただ中国人らアジアからの移民労働者は、白人系とは異なる生活文化持っており、その軋轢から激しい反中国人排斥運動が起こり、1882年には中国人排除法が成立した。中国人に代わって日本人移民が増大すると、これも事実上の日本人移民禁止法で止められた。

 奴隷解放宣言で、形ばかり解放されたアフリカ系アメリカ人(アフリカ系黒人)は、ほとんど社会的な対策が取られなかったため、人種差別を受け続けた。クー・クラックス・クランなどの白人至上主義者は、非合法なリンチを続けた。それらに反発した黒人たちは、都市部などで暴動を起こした。しかし彼らは、インディアンのような部族基盤も持たないため、組織的な抵抗はできず、突発的な暴動として鎮圧された。

 1850年代に衰退したホイッグ党に代わって結成された「共和党」は、急速に工業化する北部において、反奴隷制を標榜する連邦派進歩主義政党として拡大した。一方、民主党は南部での支持を集めて共和党と対立した。共和党候補エイブラハム・リンカーンが大統領に選出されると、南北戦争が開始され、敗れた南部に定位していた民主党は衰退した。

 共和党は、東部の商工業主に支持を得るブルジョア政党へと性質を変えていったが、大企業の利益を擁護し、外交面においては対外積極策を展開して、19世紀末からは積極的な帝国主義外交・対外膨張政策をとり、アメリカを列強国家へと導いた。この間、民主党はグロバー・クリーブランドとウッドロウ・ウィルソンの二人の大統領を出しただけだった。

 民主党は反中央集権と個人的自由を打ち出し、共和党政権に取り残された不満層の受け皿として存続したが、南北戦争の敗北地域となった南部の人々、北部の都市部で低賃金に苦しむ移民、資本主義の発展で没落していく西部の中小農民などがこの時期の民主党支持層だった。

 第一次大戦後の過熱した時代のあと、大恐慌を背景にフランクリン・ルーズベルト大統領が就任すると、民主党は都市大衆を基盤とした勢力として本格的に再生されていく。F・ルーズベルトと彼のニューディール政策は民主党の左旋回を決定づけ、党は労働者・小農・失業者・移民・黒人などの低所得者層を基盤とする社会的自由主義政党となっていった。

 一方の共和党は、F・ルーズベルトへの対抗から保守化を強めた。当初の共和党は、北部を基盤に古典的自由主義を支持し、奴隷制の拡大に反対し、経済改革を支持したが、世界恐慌のあと、民主党のニューディール政策に対抗して、党はイデオロギー的に右にシフトした。第二次大戦後になると、 公民権法や投票権法の後には、党の中核的な基盤は中西部や南部の州にシフトし、党の支持層は、農村部に住む人々、サイレント・ジェネレーション、白人男性、福音派キリスト教徒などが中心となった。

 一般に共和党が市場を重視する「小さな政府」を推進するのに対し、民主党は政府の役割を重視する「大きな政府」を推進するとされる。そのため民主党は福祉(公的扶助)に関して拡充を目指し、対して共和党は公定扶助をできる限り縮小するとともに、公的扶助受給者には勤労論理教育や労働を義務付けることを目指す傾向がある。

2022年1月18日火曜日

【アメリカの歴史】09.帝国主義時代と海外領土拡大(1890年〜1918年)-1

【アメリカの歴史】09.帝国主義時代と海外領土拡大(1890年〜1918年)-1


 1890年、アメリカ合衆国本土のフロンティア消滅が公式に宣言され、インディアン戦争も終わりを告げ、西部開拓の時代も一段落した。ヨーロッパ列強はアフリカやアジアに植民地を獲得しつつあったので、アメリカも更なるフロンティアを海外へ求め、外に目を向けるようになった。

 1889年にパン・アメリカ会議が開催されると、これを契機にアメリカはラテンアメリカへの進出を始める。1896年のアメリカ合衆国大統領選挙で、共和党のウィリアム・マッキンリーが勝利を収めると、高関税政策で国内産業を育成し、急速な成長と繁栄の時代を到来させ、国民も自信を強めた。

 マッキンリーは大不況からの回復とともに、金本位制を導入して国力を担保すると、スペインに対し、キューバでの専政を批判した。そして1898年、米西戦争が勃発すると、アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、キューバとフィリピンを占領してスペインに圧勝した。

 1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれた。さらにマッキンリーは、1898年にハワイ共和国を併合、お膝元のカリブ海や太平洋地域に勢力圏を確保した。マッキンリーは1900年の大統領選で再選を果たしたが、翌1901年に無政府主義者に暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが後任となった。

 アメリカ合衆国は大西洋と太平洋を繋ぐパナマ運河の建設に関心を深めた。1903年セオドア・ルーズベルト大統領は、パナマ運河を建設し支配するために、コロンビアからのパナマの独立を支持した。また、セオドア・ルーズベルトはモンロー・ドクトリンに対するその「ルーズベルト命題」を発表し、ラテンアメリカ諸国が近代化と民主主義の推進に無能で不安定な場合には、「良き隣人」として干渉を厭わないと宣言した。

 カリブ海地域を勢力圏にするために、たびたびこれらの地域に「棍棒外交」と言われる武力干渉をし、また、シーレーンの確保を目的にパナマ運河建設権を買収し、長期間にわたる難工事で多くの犠牲を出しながら完成にこぎつけると、パナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。

 太平洋の対岸の東アジアでは、西欧列強により中国の分割が進み、新興の日本も日清戦争に勝利して、帝国主義の一員に参加しつつあった。セオドア・ルーズベルトは、清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への参入をはかった。そして1905年には、日露戦争の調停役を買って出て、国際的な立場向上を目指した。

 またこの時期に、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして巨大資本による独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーなどの巨大財閥が、アメリカ経済を支配するようになった。

 19世紀後半からヨーロッパでは人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、後発の彼らは都市部で、低所得者としてスラム街を形成した。新移民はカトリック・正教会やユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間に軋轢が生じた。

 また西海岸を中心に、清や日本からの東洋人の移民も多く発生した。彼らは低賃金労働者として、白人の職を奪うことになり、人種差別感情も加わり、彼らに対する排斥運動が起こり、すでに中国人労働者移民排斥法で中国人移民が禁止されていたところに、実質的に日本人移民を禁止する移民法が定められた。

 やがて1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、アメリカはヨーロッパの各国に武器や車両を輸出して、空前の経済繁栄を謳歌することになる。

2022年1月17日月曜日

【アメリカの歴史】08.大陸横断鉄道と西部開拓時代(1865年〜1890年)

【アメリカの歴史】08.大陸横断鉄道と西部開拓時代(1865年〜1890年)


 西部開拓時代とは、19世紀(特に1860年代に始まり1890年のフロンティア消滅まで)における、北アメリカの時代区分の一つで、オールド・ウェスト(Old West)、ワイルド・ウェスト(Wild West)などとも呼ばれる。

 フランス領ルイジアナ買収にはじまり、イギリス領カナダの一部を交換で獲得、スペインからフロリダを購入し、すでにメキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にはオレゴンを併合し、領土は太平洋に到達した。さらに、メキシコとの間の米墨戦争に勝利しカリフォルニアを獲得するなど、ほぼ今の合衆国の領土に近づいた。

 名目上の領土は太平洋へ到達したとは言え、インディアンとバッファローが散在するだけの荒れ地や山地ばかり。これ以降、インディアンと戦いながらフロンティアを西に進める西部開拓史が始まることになる。この時期、東西交通は馬車か船舶での移動に頼るしかなく、地上を行く馬車は移動に半年以上かかるし、船舶は南米大陸の南端を回る為、移動に4ヵ月以上を要した。

 さらに、大平原(グレートプレーンズ)やロッキー山脈という大自然の難所を越えなければならず、インディアンの襲撃などもあって、西部は陸の孤島のような有様であった。この問題を解消するため、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の基幹となる「大陸横断鉄道」の建設を進めた。

 鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは苦力(クーリー)と呼ばれる中国人移民が動員され、東側からは食詰めた貧困白人が駆り出され、過酷な労働に従事させられた。それらの鉄道沿線には労働者街が形成されたが、これらの新たな街は法秩序が確立されておらず、アウトローのギャングなどによる無法地帯と化していた。

 労働者たちは自ら武装して、自衛しながら線路を建設した。また、東部の司法制度はここまで及ばないため、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ(私刑)法」によって住民たちが対処した。さらに白人住民たちが「保安官」を雇う形で、かろうじて治安を保とうとした。しかし工事沿線では、自分たちの生活圏を脅かされたインディアンが蜂起し、多くの白人労働者を殺戮した。

 1869年に最初の大陸横断鉄道が開通し、順次開業していくと、アメリカは実質的にも精神的にも、やっと国土が一つとなった。合衆国は、鉄道建設の邪魔になり、西部のインディアンの生活の糧でもあるバッファロー(バイソン)を、絶滅させる作戦をとった。組織的なバッファロー虐殺によって、数千万頭いた平原のバッファローは、フロンティアが太平洋側に達した19世紀末には、ほぼ絶滅した。そして、それを生活の糧としていたインディアンも、極端に減少してゆく。

 横断鉄道の完成によって、本格的な西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われ、牛を追いかけて生活するカウボーイのスタイルが西部を象徴するものとなった。また、国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。

 西部の人口は急速に増加し、生活圏を奪われたインディアンは、1860年代から1870年代にかけて、「インディアン戦争」と呼ばれる各部族による一斉蜂起を行った。しかし、基本的には部族単位で蜂起するインディアンは、米軍により次々に鎮圧されてゆき、保留地へ幽閉されるか殲滅されるかしかなかった。

 部族ごとに生活圏を共有するインディアンは、入植する白人のような土地所有概念がなく、自分たちの生活圏に侵入してきた白人たちを攻撃して追い払うだけだった。白人たちは「ドーズ法(インディアン一般土地割当法)」などを設けて、自分たちの土地所有概念に組み込もうとした。

 この法律は、インディアン部族の共同所有制のもとにある「保留地」を、インディアン部族員個人に対して分割して「与える」ことを目的とした。しかし、インディアンに与えられる土地はわずかで、大半は白人入植者側に組み込まれた。共同所有地を前提にした部族のコミュニティは壊滅させられ、インディアンの社会は根本から破壊され、彼らの土地のほとんどは白人農業者のものとなっていった。

 西部の最大反抗勢力のスー族も、伝説的な英雄のシッティング・ブルやクレイジー・ホースが殺され、南西部でアパッチ族のジェロニモが投降し、「ウーンデッド・ニーの虐殺」を機に、「開拓に邪魔なインディアンの掃討作戦は終了した」として、合衆国は1890年に「フロンティアの消滅」を宣言した。

2022年1月16日日曜日

【アメリカの歴史】07.インディアン戦争-2(1622年~1890)

【アメリカの歴史】07.インディアン戦争-2(1622年~1890)


 北米のインディアンは部族社会で、無数の部族がそれぞれ独立して居住していた。そこへ白人入植者たちが入り込んできたため、自分たちの生活を守るために対抗したが、インディアン部族が一体となって白人入植者と戦うことは無かった。

 アメリカ独立戦争時には、英国軍に引き込まれた部族が、アメリカ独立軍と戦うという構図があった。「チカマウガ戦争」は、独立戦争に巻き込まれたチェロキー族と入植白人の間の一連の紛争があり、1794年まで続いた。また、1787年の「北西部条例」によって、北西部領土(五大湖南部でオハイオ川と挟まれた現オハイオ・インディアナなど)が白人入植者のために組み込まれると、北西部のインディアンたちはこの「領土侵犯」に対抗して「北西インディアン戦争」と呼ばれる抵抗戦を戦った。

 イギリスは、インディアンとの連携関係を無視して、1795年のグリーンヴィル条約を合衆国と調印し、インディアンはオハイオ全部とインディアナの一部を奪われることになった。独立戦争や北西インディアン戦争を経て米英戦争の後には、イギリスがインディアンとの同盟関係を放棄したため、以後インディアンはアメリカ合衆国と直接に向かい合う構図となった。

 「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と主張するアンドリュー・ジャクソン第7代大統領は、1830年に「インディアン移住法」に署名した。インディアン移住法は、インディアンを白人のいない西部の準州(現オクラホマ州)などに強制移住させ、白人社会に同化させるという民族浄化政策であり、これに従わない場合「そのインディアン部族は絶滅させる」とジャクソンは宣言した。

 東部と同様に、新しく合衆国領土とされた「ミシシッピ川西部」の大平原や山岳地でも、入植者による植民地の拡張によってインディアン部族との紛争が増大した。大平原では、北部のスー族・シャイアン族・コマンチ族・カイオワ族、また南西部ではアパッチ族たちが、白人の領土侵犯に対して激しい抵抗を行った。

 南北戦争の間も白人とインディアンの抗争は続き、1862年の「ダコタ戦争(暴動)」は、アメリカとスー族の間の最初の大規模衝突であった。狭い保留地に強制移住させられていたスー族は、ちょっとしたいざこざが契機となり、ミネソタ州全土を覆う激しい戦いとなった。この戦いで捕縛されたスー族は300人が死刑宣告され、リンカーンの「寛大な処置」でうち38名のスー族戦士が一斉絞首刑に処せられたという。

 南北戦争中から建設が始められた大陸横断鉄道は、1869年の最初の開通以来次々に開業してゆき、アメリカは実質的に国土が一つとなった。それによりミシシッピ川より西の中・西部の開拓が進み、それとともにインディアンとの戦いも頻発した。

 グレートプレーンズ(大平原)などで数千万を超えたバッファロー(アメリカン・バイソン)は、鉄道建設の邪魔になるとして、合衆国による組織的なバッファロー絶滅作戦でほぼ絶滅された。インディアンたちは生活の糧を奪われ、その人口も大幅に減少して保留地で飢えることとなった。

 1876年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後の重大な「スー族戦争」が起こった。ブラックヒルズ一帯はスー族の不可侵領土だったが、金が出たあとはまったく無視され、白人の荒らし放題だった。合衆国軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出た。

 ジョージ・アームストロング・カスターは、南北戦争で軍功を上げ頭角を現していた。この名誉欲にかられた男は、自ら「将軍」と名乗り、幾つものインディアン掃討作戦を指揮し、容赦のない軍事絶滅作戦を展開した。しかし「リトルビッグホーンの戦い」では部隊ごと全滅させられ、英雄にまつり上げられた。

 幾つものインディアン掃討作戦で功を上げたカスターは、1876年、インディアン掃討軍の第7騎兵隊の連隊長として参加する。作戦はリトルビッグホーン川(グリージーグラス川)をさかのぼって南下進軍し、モンタナ州南東部のスー族の本拠を三つの部隊で包囲するものだった。

 カスター隊のインディアン斥候は、河沿いに集結していたインディアン諸部族の野営地を発見した。別隊が野営地を襲って戦っているなか、カスターは独断で部隊に総攻撃を命じた。インディアンの野営地には、宗教行事「サン・ダンス」と会議のために諸部族の多数が集結していた。

 カスター隊はインディアン連合部隊によって挟撃され、逃げ場を失ったカスターの本隊は全滅、カスターもろとも直属の225名が全員戦死した。しばしば「インディアン側による奇襲虐殺」と語られるが、インディアンたちは儀式や会議のために集まっていたのであり、そこを突然カスター側から仕掛けられたのだというのが事実のようだ。この「カスター最期の戦い」はかなり美化されて描かれ、名誉欲にかられた男を英雄に仕立て上げ流布した。

 やがて、有名なアパッチ族の戦士(酋長というのは白人側の誤認)ジェロニモの降伏や、1890年のウンデット・ニーの虐殺以降、インディアンによる軍事的な反乱はなくなった。代わって20世紀になってからは、「レッド・パワー運動」などの権利回復要求運動が強まり、「インディアン」という呼称改善に始まり、「ハリウッド西部劇映画」などによる歪曲された民族イメージからの恢復運動が盛んとなっている。