2022年1月29日土曜日

【アメリカの歴史】20.トランプ政権の誕生とアメリカの分断(2017- )

【アメリカの歴史】20.トランプ政権の誕生とアメリカの分断(2017- )


 2016年7月、共和党予備選挙で正式に大統領候補に指名されたドナルド・トランプは、2016年11月の2016年アメリカ合衆国大統領選挙の一般投票でも、民主党指名候補のヒラリー・クリントンらを相手に、アメリカの大手マスコミの殆どを敵に回しての選挙戦の末、全米で過半数の選挙人を獲得し勝利した。

 民主党バラク・オバマの後任として、2017年1月20日に第45代アメリカ合衆国大統領に就任した。その並外れた言動から暴言王とも称され、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプが大統領に選ばれたこと自体、異例中の異例で世界中のマスコミを驚かせた。

 2017年1月20日、第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプの就任式が挙行され、就任式のテーマは"Uniquely American"としてアメリカの独自性を強調し、"united behind an enduring republic" というフレーズで「アメリカ・ファースト」での国民的統合を訴えた。

 しかし、野党である民主党の議員らが就任式の出席を拒否し、著名な芸能人も大統領就任式への出演依頼を拒否し、アメリカ国内の各j地では、トランプの大統領就任に反対するデモが実施され、新大統領の歓迎ムードに水をさす雰囲気が大きく報道された。

 トランプ大統領は就任すると幾つもの大統領令などを発し、「医療保険制度改革(オバマケア)の撤廃」「環太平洋パートナーシップ(TPP)からの撤退」「メキシコなどからの不法移民規制」「気候変動の多国間協定(パリ協定)からの離脱」「イラン核合意からの離脱」「国連人権理事会(UNHRC)からの離脱」「キューバとの国交正常化の否定」など、前任のオバマ民主党政権の政策を全否定する政策を展開した。

 トランプの政策的主張は共和党の主流派とは大きく異なっており、共和党主流はトランプに批判的な意見が多い。そもそも、かつては民主党員であり、合衆国改革党にも所属していた。2012年アメリカ合衆国大統領選挙では、世論調査で共和党の候補として2位の支持率を獲得したが、不出馬を表明した。2016年大統領選で共和党から出馬したが、出馬表明の場でトランプは、メキシコからの移民や不法入国者を犯罪者扱いする破天荒な発言をし、増大するヒスパニック(中南米)系住民の反発を受けた。

 その後も様々な問題発言を発しながらも、トランプは共和党の指名候補争いでトップの支持率を保ち続け、ついに共和党の大統領候補になったが、トランプ人気の高まりとともに、共和党支持者の中からも反トランプの声が強くなった。しかしあれよあれよという間に、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプが、元ファーストレディの民主党候補ヒラリー・クリントンを破り当選を果たし大統領に選出されてしまった。

 ドナルド・トランプは金持ちであるが、不動産業で成り上がった成金に過ぎず、ウォール街を支配する金融大資本とは無縁だった。むしろウォール街側は、反トランプの広告に何百万ドルも使って、トランプの勝利を阻もうとしたと言われる。

 さらに、ニューヨークタイムズなど主要ジャーナリズムやCNNなど大手TV局といったメジャーなマスコミが、こぞってトランプ批判を繰り返した。そして大都市のインテリ層も粗雑な言動のトランプを毛嫌いし、学生など若者も反トランプのデモを展開した。表に流れる情報は、圧倒的に反トランプ一色だった。

 しかしトランプが勝利したことで、やっとトランプ側の支持層の分析が始まった。大手のジャーナリズムは、「高校を出ていない白人」「農業や製造業といった古い産業の底辺」とし、「高卒の白人、特に男」「下流労働者で非民主的な思想の持ち主」だと分析した。しかしこれらの表層分析では、決して「トランプ人気」の源流を抉り出せなかった。

 2020年アメリカ合衆国大統領選挙では、コロナウイルス感染症への対策ミスなどで、土壇場で民主党バイデン候補に敗れることになるが、それでも全米で7,400万票を獲得するなどバイデンに肉薄した。これだけ根強いトランプ支持者は、どこから「湧いてきた」のだろうか。それは、いまだまともな解析がなされたとは言い難い。

 ラストベルトと呼ばれる廃れた工業地域の労働者、いまだ進化論を認めないキリスト教原理主義の福音派(evangelical)、ヒルビリーやレッドネックと呼ばれる半野蛮化した白人貧困層、これらは近代産業の進展とグローバル化の世界に置いていかれた層として、社会の底辺に沈潜していた。それらのゾンビが、トランプの「アメリカ・ファースト」に目覚めさせられたというのは、一つの視点ではなかろうか。

 アメリカのサブカルチャーの歴史をたどってみると、うなずけることが多い。かつてトランプ政権が誕生したときに書いたものを、下記にリンクしておく。

「トランプ現象」と「負け犬白人」たち https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170203

2022年1月28日金曜日

【アメリカの歴史】19.バラク・オバマ民主党政権の8年(2009-2017)

【アメリカの歴史】19.バラク・オバマ民主党政権の8年(2009-2017)


 バラク・オバマ(バラク・フセイン・オバマ2世)は、ケニア生まれの留学生の父親と、白人系の母親との間で、ハワイ州ホノルルで誕生した。ハーバード・ロー・スクール卒業後、公民権を擁護する人権は弁護士となり、その後イリノイ州議会上院議員として政界に進出する。

 2008年の大統領選では、当初泡沫候補視されていたが、急激に頭角をあらわし、ヒラリー・クリントンとの接戦の末に民主党の大統領候補に指名された。その勢いで、共和党候補のジョン・マケインを抑えて当選し、2009年1月ジョー・バイデン副大統領と共に第44代アメリカ合衆国大統領に就任した。

 オバマは初の非白人の大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領となった。ただしオバマの父親は、アフリカのケニアから来たエリート留学生であり、アメリカ建国以来アフリカから輸入された黒人奴隷に直接の出自をもつものではない。

 オバマは大統領予備選のころから、"Change!"というキーワードを提示し、聴衆の前で ”yes we can!” と呼びかける演説で人気を獲得してきた。そして2009年1月には、全米からワシントンD.C.に集まった200万人を超える観衆の前で、大統領就任演説をおこなった。ベトナム戦争以降、数代の大統領の失政で自信を喪失した国民に対して、「米国再生」を確信させる力強い名演説を展開した。

 オバマは就任して最初の2年間に、それまで持ち越されてきた課題を解決すべく、多くの画期的な法案に署名して法律を成立させた。「医療保険制度改革(オバマケア)」、「税制救済・失業保険再承認・雇用創出法」などは、病人・失業者など弱者に対する救済の手を差し伸べる法案として期待された。

 また外交政策では、泥沼化したアフガニスタン紛争での処理、混乱の極みに陥ったイラク戦争後のイラク、などに対処し、リビアではカダフィ政権を打倒し、アルカイダの最高指導者オサマ・ビンラディンに死をもたらすなど、軍事アクションも示した。

 オバマは予備選挙でライバルとして闘ったヒラリー・ロダム・クリントンを国務長官(外務大臣に相当)に起用した。ヒラリーは外交・経済・軍事・政治・法律・文化を状況に応じて組み合わせ、その場に適切で正しい手段を用いる「スマート・パワー」提唱したが、このオバマ&ヒラリーの外交は「現実主義の一形態」と規定され、イデオロギーに拘らない現実的な外交を展開するものとされた。

 オバマ大統領は、米中関係は21世紀の運命を決める世界で最も重要な二国間関係であるとしたが、一方で中国の人権問題は許されるべきでないと述べた。しかし、この硬軟併せ持った方針は現実的で融和的な政策ではあったが、一旦有事となると具体的なアクションを起せない現実是認外交とも見られた。

 その弱点を露呈させたのは、「戦略的忍耐」という北朝鮮政策にみられる。2009年1月オバマの大統領就任間もなく、北朝鮮は再びミサイルの発射テストを始めたため、オバマ政権は北朝鮮の挑発的な行動に対し警告した。この時期、北朝鮮は金正日書記の健康不安が進行し、核開発の実績つくりを急いでいたとみられる。

 2012年に金正恩体制に代わって、核実験の中断と国際原子力機関査察に合意するなど、対話姿勢を見せながらも、すぐに長距離ミサイルを発射して米朝合意を破るなど、オバマの対応を翻弄した。結局このようなオバマ政権の戦略的忍耐政策は、北朝鮮の核開発、ミサイル開発を促進してしまったとされる。

 オバマは、2012年アメリカ合衆国大統領選挙にも再選を賭けて出馬し、共和党候補者のミット・ロムニーと激しい選挙戦を展開したが、接戦の末に勝利を収め、アメリカ大統領に再選された。2期目のオバマ大統領は、外交実績を作るために積極的に動いた。

 2013年9月にイランのハサン・ロウハーニー大統領と電話で会談し、イラン革命後初めてのアメリカ合衆国・イラン両国首脳の接触となり、やがてイランの核兵器開発を大幅に制限する「イラン核合意」を成立させた。

 また2014年12月、オバマはキューバ国家評議会議長ラウル・カストロと国交正常化交渉の開始を発表し「キューバの雪解け」を演出し、2015年7月にアメリカとキューバ相互に大使館が再び開設され、1961年に断交して以来54年ぶりに国交を回復させた。

 しかしこれらの合意は、オバマ政権の末期に当たってレジェンド造りを急いだ感が否めず、次のトランプ大統領が就任すると、中身が未成熟であるとしてことごとくひっくり返されている。

2022年1月27日木曜日

【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ政権(2001-2009)

【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ政権(2001-2009)


 民主党ビル・クリントン大統領の任期満了にともない、2000年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党ジョージ・W・ブッシュ(ブッシュ・ジュニア)が、民主党の現職副大統領アル・ゴアを破って当選した。しかしこの大統領選はアメリカ合衆国史上で最も接戦となった選挙で、最終的には選挙結果をめぐり法廷闘争(ブッシュ対ゴア事件)になるほどだった。

 共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領は、選挙での接戦もあり支持率は当初から低かったが、就任9ヵ月後に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」によって、一気に様相が転換する。2001年9月11日朝、同時にハイジャックされた民間航空機が、ニューヨーク市のワールド・トレードセンターの双子ビルに突入して倒壊させるなど、衝撃的なニュースが駆け巡った。

 テロ事件でもたらされた大きな衝撃は、アメリカ国内のムードを一変させた。ウサーマ・ビン=ラーディンの率いるアルカーイダのテロリストがこのテロを仕組んだことが判明し、ブッシュ大統領が徹底した「テロへの戦い」を宣言すると、アメリカ国民から圧倒的な支持を得た。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラクおよび北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、これらの国がテロを支援し、大量破壊兵器を得ようとしていることを糾弾した。ブッシュ政権は、イラクを支配するサダム・フセインがテロを支援し、国連停戦決議に違背し、生物兵器・化学兵器・核兵器といった大量破壊兵器を保有しているとして批判した。

 2003年3月17日、ブッシュ大統領はサダム・フセイン大統領に対し、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし国連の決議が得られないため「有志連合」として、イギリスなどと共に「イラクの自由作戦」と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。侵攻作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったうえで、連合国暫定当局による占領統治を行い、徐々に民主化することとした。

 しかしブッシュ大統領が、イラク侵攻の名目とした大量破壊兵器は見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になり、アメリカ国民の支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準に落ち込む。ブッシュはフセイン排除の目的を「人権抑圧」にすり替えたが、占領政策による民主化は一向に進まず、フセインが強圧的に統治していたイラクは、ほぼ無政状態となった。

 2004年、ブッシュは再びアメリカ合衆国大統領選挙に立候補したが、イラクでの失政などで支持は急落しており、かろうじて過半数を得票し2回目の当選を果たした。2期目における一般教書演説では、外政に関して各国との協調路線を取ると述べたが、イランの核開発問題や北朝鮮の核問題などでは強い姿勢を示した。

 しかし、8月のハリケーン・カトリーナによって過去最大級の犠牲者を出すと、ブッシュ政権の予防の不十分さと対応の遅れが非難の的となった。チェイニー副大統領ら政府首脳にも不祥事が明らかになり、支持率は最低レベルにまで低下した。しかも先延ばししてきたイラクの大量破壊兵器の調査も、報告に誤りがあったと認め、イラク政策の責任者であったラムズフェルド国防長官を更迭することになった。

 2008年の政権末期には、サブプライムローンに端を発した世界同時金融不況へも、効果的な対応が取れず、共和党の後継大統領候補をジョン・マケインとしたが、ブッシュの不人気が影響し、民主党候補のバラク・オバマに敗れることになった。2期目のブッシュ大統領は、これといった実績にも乏しく、多大な財政赤字を残したまま、2009年1月に任期満了で退任する。

2022年1月26日水曜日

【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン政権(1990-2001)

【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン政権(1990-2001)


 冷戦が終わると1990年8月、サダム・フセインのイラクがクウェートに侵攻した。これに対し国連安全保障理事会は、イラクが即時撤退しない場合は武力行使を容認するとする決議を可決した。翌1991年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は「多国籍軍」の結成を呼びかけ、1991年1月から2月にわたって戦闘を行い、クウェートをイラクから解放した。

 この「湾岸戦争」は、第二次世界大戦後初の国連決議にもとづく多国籍軍の結成であり、安保理での拒否権行使のない決議は東西冷戦の終結を象徴する出来事だった。アメリカ主体の多国籍軍は、最新の電子兵器を駆使し、その様子は刻々と世界中のテレビジョンに映し出された。あたかもPCゲームかと見まがうほどの画像を、世界中が居間にいながら観ることができた本格的な「電子戦争」でもあった。

 1992年1月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、冷戦終結後のアジア・太平洋地域を巡る外遊を行った。日本も訪れて天皇明仁(現上皇)と会見し、宮澤喜一首相による歓迎会に出席したが、その会食で失神してしまいその様子はテレビで放映された。これでブッシュ健康不安がささやかれ、次期選挙に影を落とした。

 ブッシュは、湾岸戦争の勝利や北米自由貿易協定調印など外交での実績をほこり、1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。しかし湾岸戦争からは時間が経ち、その後の景気後退や増税はしないという公約を反故にしたことなどから、人気は凋落していた。

 1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、若い民主党のビル・クリントンが勝利した。クリントンはアメリカ合衆国史の中でも若くして就任した大統領として、ベビーブーム世代としては初の大統領となった。

 ソビエト連邦が崩壊し、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利となったが、レーガン、ブッシュの共和党政権のもとで、アメリカ経済は「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)に苦しんでいた。民主党のビル・クリントン政権は、こうした経済的不況を解消することに注力した。

 1990年代には、ちょうどICT技術の開花期に当たり、副大統領アルバート・ゴアが提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」など、ITC産業を積極的に後押しする事業が展開され、民間でもマイクロソフトやアップル・コンピュータといったICT企業が頭角をあらわし、1995年の「Windows95」の発売は、まさにインターネット時代の幕開けを象徴した。

 アメリカ経済の中心を重化学工業からICTなどのハイテクに重点を移行させ、インターネット・バブルとも呼ばれた好景気をもたらす一方で、上下両院を抑えた共和党が「小さな政府」を主張するなか、共和党のお株を奪うような「財政赤字削減」に転換し、2000年には財政黒字を達成した。

 ビル・クリントンは、アーカンソー州知事としての地方政治経験しかなく、外交に関しては未知数だった。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされたが、幸いにも冷戦後で米ソの大国が背後にいるような大きな対立は無く、民族間の紛争が散発する程度でおさまった。

 長年の懸案だったイスラエルとアラブ諸国との対立も、1993年、和平の機運が高まる中でイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で、歴史的な「オスロ合意」がなされ、クリントンはその立会人となった。しかし現実には、和平反対勢力のテロの応酬や両者の衝突事件が相次ぎ、95年11月にはラビン首相が暗殺され合意は破綻、クリントンはキャンプデービットに両国代表を招いて和平交渉を仲介したが、結局は実現できなかった。

 アジアでは、チャイナゲートと呼ばれる中国共産党政府から選挙資金を得た疑惑もあり、親中の傾向が強く、鄧小平の開放路線を受け継いだ江沢民国家主席と強力な貿易関係をもち、一方で貿易摩擦が激化する日本には厳しい態度を取った。北朝鮮の核開発問題では、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。

 クリントンは多くの女性とスキャンダルが噂されていたが、1998年に「モニカ・ルインスキー事件」が発覚し、ホワイトハウス内で淫行が暴露されると、大統領職としての権威を大きく失墜させ窮地に陥ったが、妻であり政治的野心があったヒラリー・クリントンの「寛大な援護」によって、これを乗り切った。

2022年1月25日火曜日

【アメリカの歴史】16.レーガノミクスと冷戦終結(1975-1989)

【アメリカの歴史】16.レーガノミクスと冷戦終結(1975-1989)


 リチャード・ニクソンは、中華人民共和国を電撃的に訪問して外交関係を結び、ソ連を訪問して軍縮やデタント(政治的緊張緩和)を演出し、泥沼のベトナム戦争を何とか終わらせた。また経済対策ではドル防衛のため、米ドルの金兌換停止を宣言して、ニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼ばれる衝撃を世界に与えた。

 ベトナム戦争で疲弊したアメリカの国力を立て直すために、迅速に対策を打ち出したニクソンの政策は評価され、1972年アメリカ合衆国大統領選挙では圧勝した。しかし、やがて「ウォーターゲート事件」が発覚すると、側近らと汚い言葉で話す様子なども暴露され、それまでのニクソン人気は一転して地に落ちた。

 ニクソンは議会の公開の公聴会で証言させられ、さらに国会の弾劾に直面すると進退はきわまり、1974年テレビの会見で辞任を発表する。その後継となったジェラルド・フォードは、ニクソンに対する恩赦を発効し事件調査を終わらせた。

 ニクソン辞任で大統領を引き継いだフォードだったが、ニクソンに恩赦を与えたことなどが尾をひき、1976年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党のジミー・カーターに敗れた。ジミー・カーターは人格的高潔さなどで知られたが、その任期中にイランのイラン革命・ニカラグア革命・ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻など、幾つもの外交的難問に直面することになる。

 1979年11月、革命後のイランではアメリカ大使館人質事件が起こり、52人の大使館員を人質にして、アメリカに亡命したシャー(前国王)の引き渡しを要求した。カーター政権は、アメリカ大使館占拠を防げず人質救出作戦にも失敗したことから、「弱腰外交」との批判を浴びた。人質が解放されたのは、占拠から444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日は、共和党レーガンに選挙で敗れ、カーターがホワイトハウスから去る日だった。

 1970年代はアメリカの自信を揺るがせる時代となった。ニクソンの不名誉な辞任、ニクソンに特赦を与えて国民の不興をかったフォード、そして民主党政権になっても弱腰外交と批判されたカーター、国民は大統領に信頼を置けない時期が続いて「強い大統領」を渇望する状況となっていた。そして1980年の大統領選挙では、共和党のロナルド・レーガンがジミー・カーターに圧勝した。

 ロナルド・レーガンは、ハリウッドの映画俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1981年1月大統領に就任した。レーガン大統領の1期目は、カーター政権から続くスタグフレーションの解決が課題となった。レーガンは、「レーガノミクス」と呼ばれた経済政策を推進した。

 レーガノミクスは、供給面から経済を刺激するサプライサイド経済学に基づいており、直面するスタグフレーションの弊害を抑える対策とされた。減税や規制緩和による供給面からの経済刺激を重視し、マネーサプライを増やすマネタリズム的な通貨政策を前提条件にしており、これはF・ルーズベルト以来の、ケインズ経済学に根拠を置いた需要重視政策からの転換と考えられた。

 しかしレーガノミクスは実質的に、ミルトン・フリードマンが主唱者とされるマネタリズムと、それまで主流だったケインジアン政策との、折衷策だったことがうかがえる。1983年に景気回復が始まったが、これは軍事支出の増大と減税という財政政策による消費の増大(有効需要効果)が主因と考えられ、ケインズ効果でしかないとされる。

 一方で、レーガンノミクスで高金利政策が行われたことによって、ドル高が進行し、輸出の減少と輸入の増大が起こったこと、また、スターウォーズ計画のような防衛政策に対する巨額の財政支出や減税政策が、海外からの輸入増によって需要超過を満たすことで、高インフレから脱出することに成功した。

 しかしながら、税収減と軍事歳出の増加は「財政赤字」を増大させ、ドル高の持続と景気回復によりさらに「経常赤字」が増大した。レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」としたと政策の効果を主張したが、この「双子の赤字」は、その後のアメリカ経済の大きな重石となった。

 外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命などに弱腰の対応しかできなかったとして、レーガンは外交に関しては強硬策を展開し、「強いアメリカ」を印象付ける政策を推進した。

 しかしレーガン政権の2期目には、「イラン・コントラ事件」に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に批判が集中した。それでもレーガンは強気の姿勢を通し、デタント(軍縮などによる緊張緩和)を否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判した。

 「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗しつつ、「レーガン・ドクトリン」を発して「新自由主義」を提唱し、イギリスの「サッチャー首相」・日本の「中曽根首相」・西ドイツの「コール首相」などの同盟国の首脳と密接な関係を結び、世界中の反共主義運動を支援し、ソ連を経済的に追い詰めることに成功した。

 東西緊張関係は「ミハイル・ゴルバチョフ」の登場後に急速に緩和された。ゴルバチョフは、西側諸国の支援と協調でソ連の復興を目指したが、時すでに遅く、やがて東欧やソ連の崩壊に至る。かくして「東西冷戦」は終結した。

2022年1月24日月曜日

【アメリカの歴史】15.ベトナム戦争とアメリカ社会のかげり(1964-1975)

【アメリカの歴史】15.ベトナム戦争とアメリカ社会のかげり(1964-1975)


 1960年に結成された「南べトナム解放民族戦線(ベトコン)」は、北ベトナムの事実上の支援を受けながら、南ベトナム領域でのジャングルで、ゲリラ戦術を展開し、熱帯のジャングル戦に慣れていないアメリカ軍を悩ませた。

 ジョンソン大統領は、1964年の「トンキン湾事件」を口実に、北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始した。さらに北爆は恒常的となり、地上軍20万人の軍が投入され、アメリカと北ベトナムの間の宣戦布告なき「ベトナム戦争」となった。

 1968年1月の解放勢力側の「テト(旧正月)攻勢」から、形勢は完全に逆転し、ソンミ村虐殺事件など米軍の民間人殺戮事件が表面化し、アメリカ国内や世界各地ではベトナム反戦運動が盛り上がるなど、ベトナム戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきた。

 1969年に、共和党のニクソン大統領が就任すると、ベトナム反戦運動の高まりに押されてベトナムからの撤兵を表明した。しかし一方で、供給ルートを絶つとして周辺のカンボジア・ラオスに空爆するなど戦線を拡大し、第2次インドシナ戦争の様相を呈した。

 1972年、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領は、中国を電撃的に訪問、さらにソ連も訪問して、お互いのバックにひかえる大国間で頭越しの話し合いを開始した。同時にニクソンは北爆を強化しながら、キッシンジャーとレ=ドク=トの間で秘密交渉を進めさせ、1973年1月に「ベトナム和平協定」を成立させた。

 アメリカ軍のべトナム撤退は開始されたが、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、北ベトナムの支援の下、南ベトナム解放戦線よって首都サイゴンが陥落し、ようやくベトナム戦争は終結、北ベトナム主導で南北統一が実現した。

 ベトナム戦争は第二次世界大戦後のもっとも規模の大きい、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であっただけでなく、アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内ではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で、「ベトナム症候群」などといわれた。

 当初アメリカ合衆国の世論は戦争を支持したが、ベトナムでの米軍若者の死者が増え、一方で米軍の残虐行為などが表ざたになるなど、アメリカの「正当性」が疑われるようになり、世論の支持が失われていった。

 ひとつの大学のキャンパスで始まった小さな反戦運動は、戦局の進展に従って大きな世論を形成していった。学生たちは大戦後に生まれたベビーブーマーの世代で、反戦運動は公民権運動やフェミニズムや環境保護運動など、人権問題や環境問題と絡まり合って、時代の流れにプロテストする若者の運動は、世界の先進国に波及していった。

 ベトナム戦争での事実上の敗戦は、アメリカ合衆国に大きなダメージを与えた。アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、一方で国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立など、大きな打撃となった。ベトナム帰還兵の社会復帰も深刻で「ベトナム症候群」と呼ばれ、社会的な後遺症をもたらした。

 そんな中で、若者を中心に「カウンターカルチャー」と呼ばれる新しい価値観が、既存の主流社会の文化に対抗して生まれてきた。より自由な生き方を求めて、平和・愛・自由を主張する「ヒッピー文化」が生まれ、彼らはフォークやロックと言った音楽に心酔し、LSDやマリファナなどの幻覚剤を使用する風俗も誕生した。このようなカウンターカルチャー革命は、1969年に開催されたウッドストック・フェスティバルなどで体現された。

2022年1月23日日曜日

【アメリカの歴史】14.東西冷戦と米ソの代理戦争(1945年〜1964年)

【アメリカの歴史】14.東西冷戦と米ソの代理戦争(1945年〜1964年)


 第二次世界大戦が連合国側の勝利で終わると、「アメリカ合衆国」がその圧倒的な経済力で、戦後世界で疲弊しきった欧州など自由主義国の復興を支援する立場になった。同じく連合国として戦った「ソビエト連合」は、唯一の共産主義国家として、本質的に相容れない自由主義国家と対立することが明確になった。

 さらに1949年に、毛沢東によって中華人民共和国が成立すると、ソ連が勢力圏とした東欧諸国も含めて、世界の3分の2を占める勢力となった。アメリカに続いて、ソ連が核実験に成功し、中国もそれに追随するなど東西が莫大な核を保有して、その「抑止力」によってホットな戦い、すなわち兵器を用いての「熱い戦い」ができない状況となった。このような対峙状況は「冷戦」と呼ばれた。

 F・ルーズベルトの死去により、副大統領だった民主党「ハリー・トルーマン」が後を引き継いだが、アメリカ合衆国は、戦後世界の民族自決・平等な経済機会・資本主義の再建をめざし、その膨大な富を提供する方針を示した。

 一方、ソビエト連邦を強権的に仕切る「ヨシフ・スターリン」は、ポーランド・ルーマニア・東ドイツなど東欧に親ソ連共産党政権を立て、西ヨーロッパ自由圏との政治・経済的な境界を構築した。これにより欧州大陸は東西に分裂し、これを前英国首相ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテン」と呼び、米ソ冷戦時代が始まった。

 アメリカ合衆国は、第二次世界大戦による荒廃から立ちなおさせるために、マーシャルプランと呼ばれるヨーロッパ復興計画を実施し、膨大な資金を供給した。これは経済支援であるとともに、ソ連を盟主とした共産主義勢力と対抗するためでもあった。

 アメリカ合衆国と自由主義西欧諸国は、「北大西洋条約機構 (NATO)」という軍事同盟を結成し、一方のソ連は、NATOに対抗するため東側共産主義国を統合し「ワルシャワ条約機構」を結成して対峙することになった。

 米ソの東西冷戦はそのまま数十年続くが、その間に何度も最前線で代理戦闘が起きた。最も東西冷戦のシンボルとなったベルリンでは、冷戦初期の1948年、ソ連政府により「西ベルリン封鎖」が行われた。この時はアメリカ側が「ベルリン大空輸」で市民の生活を守った。その後、経済的優位に立った西ベルリンに対して、1961年、東側は「ベルリンの壁」を構築し、その後の東西の対立の象徴となった。

 一方、東洋での分断国家となった朝鮮半島では、1950年、成立して間もない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、ソ連のスターリンの同意のもと、事実上の国境線の38度線を越えて大韓民国(南朝鮮)に侵攻した。マッカーサー指揮の連合国軍と、突然参入してきた中国人民軍との間で、激しいせめぎ合いが続いたが、1953年、スターリンの死にともなって、38度線付近で「休戦協定」が結ばれた。

 1953年に、民主党トルーマンから引き継いだ共和党のドワイト・アイゼンハワー大統領は、ヨーロッパ戦線の英雄将軍で圧倒的な人気を誇ったが、彼の政権期にはソ連の躍進が目覚ましく、当時始まった宇宙開発競争では、初の人工衛星スプートニックやガガーリンの宇宙周回など、科学や軍事でもソ連の圧勝の雰囲気となった。

 この当時、日本の知識人間でも、もし米ソが戦えばソ連の圧勝になると信じられていた。1961年、43歳で民主党から選ばれた若きジョン・F・ケネディ大統領は、受諾演説で「ニューフロンティア政策」を公表し、宇宙競争では、1960年代の終わりまでに月に人類を送る計画を発表し、米国民に夢を与えた。この計画は1969年に実現し、米ソの逆転をイメージ付けたが、ケネディはすでに暗殺された後だった。

 スターリンを引き継いだソ連の指導者ニキータ・フルシチョフは、アメリカを初めて公式訪問するなど、一時的な「雪融け」ムードを演出したが、実質支配下にある東欧諸国では、1953年の東ドイツ暴動の鎮圧、1956年のハンガリー動乱にも軍事介入し自由化の歩みは許さなかった。

 1959年のキューバ革命をフィデル・カストロが成功させると、フルシチョフは同盟関係を結び、アメリカのお膝元カリブ海に共産党政権が誕生した。米ソはその後の1961年、最大の核戦争危機を迎える。誕生したばかりの若きケネディ政権が、キューバにミサイル基地が建設されているのを発見し、この基地の撤去を求めた。ケネディ大統領は苦渋の決断で、海上封鎖でソ連船舶での資材持ち込みを強制阻止する方針で対処し、衝突直前に、ソ連船舶が引き上げることになった。

 南北戦争以来放置されてきた黒人(アフリカ系アメリカ人)への人種差別だったが、この時期の抵抗運動は「直接行動」にシフトし、バスのボイコット・シットイン・フリーダムライドおよび社会改革運動という動きをしめしていた。やがてそれは黒人たちの「公民権運動」として組織化されていった。

 1963年8月の「ワシントン大行進」は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに率いられて最大の盛り上がりを見せた。黒人を中心にした二十数万人の大群衆が「仕事と自由」のために結集し、キング牧師の有名な「I Have a Dream」演説は、この集会で為された。

 ジョン・F・ケネディ大統領や弟の司法長官ロバート・ケネディたちは、公民権法の成立を支持したが、その成立は1964年、J・F・ケネディ暗殺後のリンドン・ジョンソン政権下に持ち越された。

 すでに戦争直後から独立運動が始まっていたフランス領インドシナでは、1950年、ホー・チ・ミンが「ベトナム民主共和国」の承認を求め、毛沢東の中華人民共和国やスターリンのソ連の承認を取り付けた。一方のアメリカは、ドミノ理論によるアジアの共産化を恐れ、フランス軍とインドシナ三国に軍事援助を始めた。

 しかし1953年、フランス軍はディエンビエンフーの戦いで敗れて植民地を放棄、以後アメリカが前面に出てくる。アメリカはゴ・ディン・ジエム政権を誕生させ、直接支援を行うが、これは事実上の傀儡政権に過ぎなかった。かくしてべトナムは17度線で、朝鮮と同じく南北の分断国家となった。当時のアメリカのケネディ政権は、積極的に南ベトナム支援に兵員を送り出したが、彼の暗殺後のジョンソン政権で、アメリカはますますベトナム戦にのめりこんでゆく。