2022年1月15日土曜日

【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)

【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)


 「インディアン」とは英語でインド人のことをさすが、コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、そこが目指していたインドだと誤認していたため、以来、英語ではそこの住民をインディアンと呼ぶようになったとされる。

 今では、アメリカ合衆国の先住民族を総称して「ネイティブ・アメリカン=Native Americans」と呼ばれることが多いが、ここでは歴史的記述をするため、合衆国本土やカナダに展開していた部族を「北米インディアンorインディアン」と便宜上よぶ。なお、中・南米に展開した先住民は、スペインやポルトガルのラテン語系に支配されたので「インディオ」と呼ばれた。

 「インディアン戦争」とは、1622年から1890年の間の、アメリカへの白人入植者とインディアンの間で起きた抗争を総称したもので、イギリスなど白人の「アメリカ入植」開始から、インディアン掃討が完了したとされる「フロンティアの消滅」の時までをさすことが多い。

 インディアン戦争は大きく分けて、次の4つの時代区分に分けられる。
1.白人がアメリカに入ってきて手探りでインディアンとの共存を探った最初期の時代。
2.アメリカ合衆国の独立とそれに続く期間であり、インディアンからの激しい抵抗があり、同化しないインディアンは排除され、ミシシッピ川から東にほぼインディアン居住地が無くなった時代。
3.南北戦争以降、ミシシッピ川以西に白人の入植が進み、アメリカ西部のインディアンが屈服させられて、フロンティアが消滅した時代。
4.1900年代初めにインディアン条約が合衆国側から破棄され、部族そのものが消滅させられ始めた時代。

 初期の入植時には、入植場所やインディアンの部族ごとにことなるが、一般に白人と友好的な関係があったとされる。様々な理由で幾つもの小競り合いが入植者とインディアンの間であったが、「ジェームズタウンの虐殺」が初期の事件として知られている。1622年3月、ポウハタン族がバージニア植民地を攻撃し、ジェームズタウンで347人が死亡したとされる。

 やがてインディアンと白人の間で大規模な抗争は各地で起こり、イギリスやフランスはそれぞれの別の地域に入植したので、その地域のピクォート族やイロコイ族といったインディアン部族との戦いが繰り広げられた。

 17世紀末に始まったヨーロッパ列強の対立は、そのまま北アメリカに持ち込まれ、イギリスとフランスはアメリカの植民地でも戦闘を繰り返した。これらは「北米植民地戦争」と総称されるが、なかでも1756年の「フレンチ・インディアン戦争」は、英仏がそれぞれインディアンの部族と同盟を結んで戦ったのであるが、イギリス側からはこのように呼ばれた。

 1775年「アメリカ独立戦争」が始まったが、結成されたばかりのアメリカ合衆国は、イギリスからの独立をめざすと同時に、イギリスが抱き込んだインディアン部族との闘いでもあった。しかし劣勢となったイギリスは、1783年アメリカと「パリ条約」を結んで独立を認め、ミシシッピー川以東の広大な英国領植民地をアメリカ合衆国に割譲した。

 この時、インディアンたちは何も知らされないままに、自分たちの生活する広大な土地が、アメリカの領土とされてしまった。そしてその後、入植してくるアメリカ人とは、さらに土地を奪い合っての戦争が続くことになった。

 1803年には、イギリスと対立を強めるフランスのナポレオン・ボナパルトから、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収した。その後も、1818年にイギリスから英領カナダの一部を交換で獲得、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。また1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合するなどして、領土は太平洋に到達した。

 さらに、メキシコとの間の米墨戦争に勝利し、1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1853年にさらにメキシコ北部を買収した。カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、ゴールド・ラッシュが起きて、多数のインディアンが虐殺された。

 かくして広大な中西部への開拓史が進展し、フロンティアは西へ西へと移動してゆく。しかし、大平原やロッキー山脈の強大な大自然により陸上移動は拒まれ、さらに続く「南北戦争」により開拓は停滞した。大西部の本格的な開拓は、リンカーン大統領が南北戦争中に建設を進めた「大陸横断鉄道」の開通を待つことになる。

2022年1月14日金曜日

【アメリカの歴史】05.アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)

【アメリカの歴史】05.アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)


 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、産業化が進んだ北部と綿花生産を主産業とする南部とは、産業育成のための「保護貿易」と綿花などの輸出優先の「自由貿易」とをめぐって利害が対立した。そこへ、重工業化の進んだ北部では労働者不足となり、南部での「黒人奴隷」を黒人労働力として利用すべく、奴隷解放を望んだ。

 次々と西部に広がる新たな植民地を州に格上げするとき、新州に奴隷制を認めさせるかでどうかで南北対立となった。そして1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える「共和党」が結党され、奴隷制の下での農業主の支持が多かった南部「民主党」と対立した。

 1860年に共和党「エイブラハム・リンカーン」が大統領にえらばれると、黒人奴隷解放を目玉政策とし、北部の資本家から大歓迎された。しかし政治経験の少なかったリンカーンが、大統領に選出されるまでにはさまざまな困難があった。

 1858年のイリノイ州における上院議員選挙では、現職のスティーブン・ダグラスと、下院議員を1期務めただけのリンカーンとの間で、有名な「リンカーン・ダグラス論争」が展開された。リンカーンは新しい領土に奴隷制を拡張することに反対したが、ダグラスはそこに住む人々が決めるべきと考え、これを人民主権と呼んだ。

 リンカーンはスプリングフィールドにおいて、有名な「分かれたる家演説」を行った。「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝3の25)」から引用して、アメリカ合衆国が分かれ争うことを期待しない。奴隷制の反対者が、あらゆる州で奴隷制を非合法になるまで突き進むしかないとしたが、自分は奴隷制度廃止論者そのものではなく、彼等が自分で判断する自由が与えられるべきとするものだと主張した。

 一方、ジョン・ブラウンという過激な奴隷制度廃止運動家が、ゲリラ活動で市民を殺し黒人奴隷を武装蜂起させようとしたが、土地の奴隷達は立ち上がることはなく、ブラウンは逮捕され処刑された。これは南部人を震え上がらせ、ブラウンを英雄かつ殉教者と祭り上げた北部奴隷制度廃止運動家に対する不信感を増大させた。

 このような対立激化の下でリンカーンが大統領に選ばれると、南部諸州は「アメリカ合衆国」からの脱退を宣言し、「ジェファーソン・デイヴィス」を初代大統領に選出して南部諸州の「アメリカ連合国」を結成した。そして1861年4月12日、南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して「南北戦争」が勃発し、またたくまに戦火はアメリカ中に拡がった。

 当初北軍は圧倒的な軍隊を集めて、南部アメリカ連合国の首都リッチモンドを一気に占領し戦争を終わらせようと考えたが、士気の高い南軍に打ち負かされ、さらに南軍北バージニア軍の指揮官となった「ロバート・E・リー将軍」の強い抵抗に直面し、東部での戦線は一進一退を繰り返した。この間、エイブラハム・リンカーンは「奴隷解放宣言」を出し、戦争に大儀を与えて北軍の士気を高め、また、ヨーロッパからの干渉を防ぐことに成功した。

 南軍リー将軍は北軍を打ち負かして大きな戦果を挙げ、その勢いに乗ったリーは更なる北部への侵攻を企図した。そしてペンシルベニアのゲティスバーグで総力戦が行われた。この「ゲティスバーグの戦い」は事実上の雌雄を決する戦闘となったが、この戦闘でリーの南軍は貴重な戦力を多く失い致命的なダメージを受けた。

 ゲティスバーグの後、リー軍の追撃に不満を抱いたリンカーンは、新しい北軍指揮官に「ユリシーズ・グラント将軍」を指名した。グラント将軍は北軍の強みが軍事資源と人的資源にあるとし、リー軍を消耗戦に持ち込んだ。

 グラントは、バージニア州での「オーバーランド方面作戦」でリー軍をピーターズバーグに追い詰めた。一方で南軍の兵站の拠点であったジョージア州のアトランタも、シャーマン将軍に占領され、南北戦争の帰結は極まった。グラントの軍隊に捕まったリーは、アポマトックス・コートハウスで降伏し、4年間にわたり甚大な損失をアメリカに与えた「南北戦争」が終わった。

 なお「南北戦争”American Civil War”」は、北部の「アメリカ合衆国」と合衆国から分離した南部の「アメリカ連合国」の間で行われた「内戦」であり、アメリカ国内では「The Civil War」 と表記される。

 1865年4月14日リー将軍の降伏から4日後、お祝い気分が首都を覆っているなかで、リンカーン大統領はフォード劇場で観劇に臨んでいたが、俳優でアメリカ連合国のシンパであったブースに後頭部を撃ち抜かれて死亡する。ブースはリンカーン大統領ほかの政権重要人物を暗殺し政府を転覆しようとしたが、大統領以外の暗殺には失敗、その企みは失敗した。

 リンカーンは暗殺された最初の大統領になり、アメリカの歴史に大きな影響を与えた偉大な人物としてその死が悼まれた。共和党政権は後継者に恵まれず若干の混乱をきたしたが、ブースの企みは水泡に帰した。

 しかし、穏健派のリンカーン大統領暗殺により、急進派共和党員が議会の実権を握り、南北戦争の終結後の処理である「リコンストラクション(再建)」は、南部に対して過酷な処置を強いたため、闇に潜ったクー・クラックス・クランなどのテロが台頭し、逆に溝を広げる結果となった。

 さらに、形式上は解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人)も、必要な法的・政治的・経済的・社会的な具体策は取られずに、元の農場主のもとに戻るものも多く、その後も残された数々の隔離政策によって、黒人に対する不当な待遇や差別は20世紀半ばまで放置されることになる。

2022年1月13日木曜日

【アメリカの歴史】04.ジャクソン民主党とフロンティア拡大(1829年~1861)

【アメリカの歴史】04.ジャクソン民主党とフロンティア拡大(1829年~1861)

 
 1828年の大統領選挙で、「アンドリュー・ジャクソン」が第7代大統領となり、選挙権を拡大して民主政治を発展させるなど、ジャクソン流民主主義が進められた。それまで東部都市部の商工業主など資産家中心だったところに、西部の農夫や東部の労働者・職人・小規模商人に投票権が拡大されると、ジャクソンの主導した「民主党」が有力となった。他方でジャクソン流の民主主義に反発する派はホイッグ党に集まった。

 ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場するとともに、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会が出現した。

 一方、中西部の新領土は、ルイジアナ買収以来拡大を続け、1848年にメキシコからカリフォルニアを獲得すると太平洋岸に到達した。そして、フロンティアと呼ばれる開拓最前線を、西へ西へと移動させてゆく「西部開拓史」が展開された。「フロンティア」とは、1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下の開拓前線とされた。

 ジャクソンは米英戦争などで軍指揮官として活躍し、英国軍と同盟したインディアンの徹底虐殺によって、戦争の英雄として大衆的支持を集めていた。ジャクソンは政治家としても、庶民"common man"の味方として振る舞い人気を高めた。

 一方で、白人以外のインディアンや黒人などに対しては、徹底した人種差別主義者であり、先住民であるインディアンを掃討し、「インディアン移住法」を制定して辺境の保留地"Reservation"に強制隔離した。さらにジャクソン自身、テネシーに大農地を所有し、多数の黒人奴隷を酷使していた。
 
 また、ジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」であり、大きな連邦政府を望まないジャクソンは、政府が設けた第二合衆国銀行を、州の独自財政を奪い庶民の利益に沿わないとして、これを破産に追い込んだ。これらの影響から、彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債をださなかった。
 
 ジャクソン大統領は「インディアンは白人と共存し得ない」として「インディアン移住法」を可決すると、ミシシッピ川以東の大多数のインディアンを、強制的に白人のまばらなインディアン準州(現オクラホマ州)の、連邦政府が保留した居留地"Reservation"に移住させ、白人社会に同化させる方針で、これに従わない部族は絶滅させるという民族浄化政策であった。

 オクラホマへのインディアン強制移住は「涙の道」と呼ばれた。どの部族も徒歩による大陸横断を強制され、数千、数万と言われる途上死者を生んだ。ジョージアからフロリダに居住したセミノール族インディアンたちは、逃亡黒人奴隷を受け入れて「セミノール戦争」を戦ったが、ジャクソンは焦土作戦を採って殲滅させた。これらは、今では「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれる悲惨な結末をむかえた。
 
 アンドリュー・ジャクソンは、その強権ぶりからアンドリュー1世とも揶揄され、権威的な独自な政策を展開した。ジャクソンの政権下を中心に、アメリカ独立戦争と南北戦争の間は「ジャクソン・エラ(ジャクソン時代)」などと呼ばれた。
 
 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との競争のため保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため自由貿易を求めて、南北の対立が非常に深まった。これが、奴隷制をめぐる対立として激化して、やがて「南北戦争」が勃発することになる。

2022年1月12日水曜日

【アメリカの歴史】03.西方領土拡大とモンロー主義(1789年〜1829年)

【アメリカの歴史】03.西方領土拡大とモンロー主義(1789年〜1829年)


 1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、1776年7月4日に植民地連合は「独立宣言」を発表し、1783年には植民地側の優勢の下で「パリ条約」が締結され、「アメリカ合衆国」として独立(建国)を果たした。そしてイギリスからは、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南を獲得した。

 1787年合衆国憲法が制定され1789年3月4日に発効すると、アメリカは「共和制国家」となり、初代大統領として大陸軍司令官であった「ジョージ・ワシントン」が就任した。アメリカ合衆国議会は、アメリカ合衆国憲法の修正条項という形で「権利章典」を採択し、新しい国家としての法体系を整えていった。

 アメリカ合衆国は、近代の共和制国家として「自由」と「民主主義」を標榜し、当時としては稀有な民主主義国家ともなった。しかし、女性・黒人奴隷・アメリカ先住民の権利はほとんど保障されず、奴隷制度と人種差別は独立後のアメリカに大きな課題を残すことになった。

 この時代のアメリカ合衆国は、イギリスから割譲されたミシシッピ流域以外にも、ルイジアナ買収・米英戦争・モンロー主義・米墨戦争など、諸外国との交渉・紛争を経て、西方へ領土を拡張していった。

 フランス革命を経てナポレオン・ボナパルト治世下のフランスは、イギリスとの対立を深めており、ナポレオンはルイジアナ植民地がイギリスとの闘争に負担になるとして、1803年、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナをアメリカに売却することにした。これにより、合衆国は広大な西部の土地を得て、ミシシッピ川も物流路として自由に使えるようになった。

 アメリカ合衆国は建国以来西へ西へと拡がってきたので、西部の定義は時代と共に変わってきた。独立の初期は、東部13州の東に横たわるアパラチア山脈が境界とされたが、独立時にイギリスから割譲されたミシシッピ川までの地域や、フランスからのルイジアナ地域の取得以降には、ミシシッピ川以西を西部とするようになった。

 アメリカの地域区分では、東部・中西部・西部・南部の四つに分けられることが多い。ただし、現在のように飛行機などでの移動時間が重要になってくると、アメリカン標準時に基づいて、東部・中西部・山間部・太平洋部と四つの地域に分けられることもある。

 ルイジアナ買収の直後、フランスとイギリスは戦争状態に入ったが、トラファルガーの海戦でフランス海軍が敗れると、イギリスは海洋貿易の締め付けを強めた。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出にたよる状態であったので、中立の態度を取っていたが、イギリスの海上封鎖でアメリカの農産品輸出が大きな打撃を受けたため、イギリスに宣戦布告する。

 アメリカは、初期には優勢であったが次第に苦戦となり、1815年のガン条約により停戦となる。米英の領土は戦前のままに戻ったが、この米英戦争中に経済的・文化的な欧州との関係が途絶えたため、アメリカではナショナリズムが高まり、経済・文化的自立を促進することになった。

 ジェームズ・モンローが第5代大統領となると、1823年、欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱える「モンロー宣言」を発表する。これはその後のアメリカ孤立主義の典型のように言われることが多いが、一方で「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」という宣言でもあった。

 1803年のルイジアナ買収以来、アメリカは領土拡大を続け、1848年にメキシコからカリフォルニアを獲得すると太平洋岸に到達、フロンティアと呼ばれる開拓最前線を西へ西へと移動させていった。このフロンティア西漸は、「フロンティア・スピリット(開拓者魂)」が形成されアメリカ民主主義を増進させたという考え方がある一方、この期間は、アメリカインディアン虐殺と黒人奴隷の下で成り立った白人支配社会の成立の歴史でもあった

 それとともに、アメリカ合衆国内で産業革命の勃興と南北の対立が、奴隷問題として先鋭化してゆき、1861年の南北戦争として衝突することになる。一方で、南北戦争中から大陸横断鉄道の建設が進められ、この開通によりフロンティアはさらに西へ移動し、1890年にインディアンの組織的抵抗が終わったことをもって、「フロンティアの消滅」とされた。

 この時期になると、アメリカは「孤立主義の時代」から脱皮し、「自らの縄張り」とした中南米のラテン諸国への干渉を強めるとともに、東洋にも進出し、日本などとの対立を深めていった。

2022年1月11日火曜日

【アメリカの歴史】02.独立戦争と国家建設(1776年〜1789年)

【アメリカの歴史】02.独立戦争と国家建設(1776年〜1789年)


 18世紀に入ってイギリス系植民地では、あまり農業に適していない北東部で造船や運輸などの産業が発達し、英国本国の経済に対抗するようになってきた。英国本国は、アメリカ植民地に英国以外との独自貿易を禁じたり、様々な物品税をかけるなどして植民地の産業発展を阻害してきたが、「フレンチ・インディアン戦争」などで必要になった戦費をねん出するために、さらなる重税を課してきた。

 英国は「印紙法」で貿易独占を企て、これに住民が反発すると今度は「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。これに対して植民地住民たちが、1773年にボストン港を襲撃し「ボストン茶会事件」が起こる。これはマサチューセッツ植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンで、イギリス本国の植民地政策に憤慨した植民地急進派が、植民地から輸出する茶の販売独占権を持ったイギリス東インド会社の貨物船に乗り込み、積み荷の茶を海に投棄した事件である。

 英国がボストン港を閉鎖するなど強硬な姿勢を示すと、アメリカ大陸13州の住民代表者は、フィラデルフィアで史上初めての「大陸会議」を開き、植民地の自治権を求めて英国本土に対して反抗する意思を示した。このような情勢の中で、翌1774年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、事態は戦争に発展した。

 植民地住民代表は第2次大陸会議を開催し、バージニアの指導者だったジョージ・ワシントンを総司令官に任命して大陸軍を結成、さらに、トーマス・ジェファーソンが起草し、「アメリカ独立宣言」を発表した。これは、プロテスタント的思想を体現したもので、近代民主主義の原点ともなるものであった。

 アメリカ独立戦争は、フランスとスペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世が他のヨーロッパ諸国に呼びかけて、武装中立同盟を結んだりした。このため英国は外交的・軍事的に孤立し次第に劣勢となって、1781年に「ヨークタウンの戦い」で敗れると、本国内でも独立容認の声が大きくなり、1783年、アメリカに対して「パリ条約」を結ぶ。これによって大陸13州は完全に独立し、さらにミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得する。


 独立した13州合衆国は、まだ統一国家としての形態が未熟で政策も州ごとに異なるという状態でであった。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年、フィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて「主権在民の共和制」「三権(立法・司法・行政)分立」「連邦制」を基本とした「アメリカ合衆国憲法」が制定された。

 かくして「アメリカ合衆国」(首都ニューヨーク)が誕生するが、この憲法に対する批判運動が起こり、連邦憲法容認の「連邦派(フェデラル)」と連邦制反対の「協和派(リパブリカン)」が対立するようになり、これが後の政党の源流となった。その後主流となったリパブリカンが、連邦主義を容認する「国民共和党(ナショナル・リパブリカン/ホイッグ党)」と州権主義を維持する「民主共和党(デモクラティック・リパブリカン)」に分裂し、後者はアンドリュー・ジャクソンを当選させると、「民主党」と改名して勢力を拡大した。

 第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、競争の自由・普通選挙制(白人)など民主的な政策を進めたが、その後、黒人奴隷制を支持する南部党員と、奴隷制に批判的な北部党員の間で亀裂が深まった。奴隷制支持に振れていった民主党に対して、ホイッグ党に代わり北部を基盤にし、反奴隷制を標榜する進歩主義政党「共和党」が結成された。

 奴隷制が争点となった1860年アメリカ合衆国大統領選挙では、北部の都市を中心に選挙戦を展開した共和党の「アブラハム・リンカーン」が当選した。そして南北の対立は決定的となり「南北戦争」が起こる。北軍を支持した共和党は圧倒的に支持を増やし、南北支持に分裂した民主党は勢力を失う。なお、この時期の支持基盤層や支持基盤地域は、現在の共和党と民主党とは、ほぼ逆だったことに注目する必要がある。