2021年12月27日月曜日

【アメリカの歴史】01.植民地時代 (1493年〜1776年)

【アメリカの歴史】01.植民地時代 (1493年〜1776年)


 ヨーロッパで大航海時代が幕を開き、1492年のクリストファー・コロンブスによるアメリカの発見が伝わると、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓がはじまった。スペインとポルトガルがいち早く、中南米から南米大陸を侵攻したが、後発のフランスやイギリスなどは、主として北米大陸で植民活動を始めた。

 スペインやポルトガルが侵攻した中南米には、インカ文明やアステカ文明など、独自の先行文明が栄えていた。ポルトガル・スペイン両国が「新世界」へ進出を激しく争ったが、1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲裁によって、スペインとポルトガルの間に「トルデシリャス条約」が結ばれた。これは「教皇子午線」と呼ばれた経線で、その西と東でスペインとポルトガルの新大陸征服の優先権を認めるものであった。

 当時の新大陸の様子が分からないままの裁定であったが、結果的には南米大陸の大半が西側にあって、現在のブラジルの一部だけがポルトガルの領域にあった。したがって、現在ではブラジルだけがポルトガル語で、他の中南米はスペイン語を使用するようになった。スペインは「征服優先権」を実現するために、原住民を殺戮し金銀を持ち帰るという略奪的征服を行った。

 後発となって南米から締め出されたイギリスやフランスは、英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国がこれを領有化(ニュー・イングランド植民地)、フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡ってこれをフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、北米への植民を始めた。

 さらに、ヴァージニアやカロライナにはイギリス人(ニュー・イングランド)が、ルイジアナにはフランス人が植民地を築く(フレンチ・ルイジアナ)などして、北米大陸の開拓は主にイギリス人とフランス人の2つの民族によって行われた。しかし、それだけではなく、オランダ人(ニュー・ネーデルラント)やスウェーデン人(ニュー・スウェーデン)やスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)などが、思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカは、開発の当初から多民族国家として宿命づけられていたのである。

 宗教的には、16世紀に欧州で
宗教改革が起こるとプロテスタント(新教徒)が出現し、イギリスではピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植した。彼らは先発のカトリックやインディアンと敵対しながら勢力を伸ばし、新教徒国アメリカの先鋒となった。

 北米に入植した英仏など西欧人は、中南米でのスペインやポルトガルによる略奪的征服ではなく、新植民地でコーヒー・綿花・タバコなどの農作物を農園で作り出した。狩猟遊牧民である北米インディアンしかいない北米では、中南米のような定住文明が発展せず、略奪する金銀財宝の蓄積も無かったからでもある。そして労働者が不足した北米入植地では、インディアンを奴隷化するとともに、アフリカ大陸の大西洋沿岸のアフリカ諸部族の黒人奴隷を輸入して使った。

 17世紀から18世紀にかけて、英仏がヨーロッパにおいて戦争をすると、英国人のニューイングランド植民地と、フランス人のカナダ植民地との間でも、植民地での争いが起こった。一連の北米植民地戦争はスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続いた。

 これら戦争で、英国はフランスやスペインの植民地を獲得し、北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収めた。北米の東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大してゆく。いわゆる「西部開拓史」が端緒に就くわけだが、本格的な開拓は南北戦争の終結を待つことになる。この段階では、13州の植民地が建設され、独立戦争への輪郭が出来上がっていった。