2022年1月27日木曜日

【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ政権(2001-2009)

【アメリカの歴史】18.同時多発テロとジョージ・W・ブッシュ政権(2001-2009)


 民主党ビル・クリントン大統領の任期満了にともない、2000年アメリカ合衆国大統領選挙では、共和党ジョージ・W・ブッシュ(ブッシュ・ジュニア)が、民主党の現職副大統領アル・ゴアを破って当選した。しかしこの大統領選はアメリカ合衆国史上で最も接戦となった選挙で、最終的には選挙結果をめぐり法廷闘争(ブッシュ対ゴア事件)になるほどだった。

 共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領は、選挙での接戦もあり支持率は当初から低かったが、就任9ヵ月後に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」によって、一気に様相が転換する。2001年9月11日朝、同時にハイジャックされた民間航空機が、ニューヨーク市のワールド・トレードセンターの双子ビルに突入して倒壊させるなど、衝撃的なニュースが駆け巡った。

 テロ事件でもたらされた大きな衝撃は、アメリカ国内のムードを一変させた。ウサーマ・ビン=ラーディンの率いるアルカーイダのテロリストがこのテロを仕組んだことが判明し、ブッシュ大統領が徹底した「テロへの戦い」を宣言すると、アメリカ国民から圧倒的な支持を得た。

 ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラクおよび北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、これらの国がテロを支援し、大量破壊兵器を得ようとしていることを糾弾した。ブッシュ政権は、イラクを支配するサダム・フセインがテロを支援し、国連停戦決議に違背し、生物兵器・化学兵器・核兵器といった大量破壊兵器を保有しているとして批判した。

 2003年3月17日、ブッシュ大統領はサダム・フセイン大統領に対し、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし国連の決議が得られないため「有志連合」として、イギリスなどと共に「イラクの自由作戦」と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。侵攻作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったうえで、連合国暫定当局による占領統治を行い、徐々に民主化することとした。

 しかしブッシュ大統領が、イラク侵攻の名目とした大量破壊兵器は見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になり、アメリカ国民の支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準に落ち込む。ブッシュはフセイン排除の目的を「人権抑圧」にすり替えたが、占領政策による民主化は一向に進まず、フセインが強圧的に統治していたイラクは、ほぼ無政状態となった。

 2004年、ブッシュは再びアメリカ合衆国大統領選挙に立候補したが、イラクでの失政などで支持は急落しており、かろうじて過半数を得票し2回目の当選を果たした。2期目における一般教書演説では、外政に関して各国との協調路線を取ると述べたが、イランの核開発問題や北朝鮮の核問題などでは強い姿勢を示した。

 しかし、8月のハリケーン・カトリーナによって過去最大級の犠牲者を出すと、ブッシュ政権の予防の不十分さと対応の遅れが非難の的となった。チェイニー副大統領ら政府首脳にも不祥事が明らかになり、支持率は最低レベルにまで低下した。しかも先延ばししてきたイラクの大量破壊兵器の調査も、報告に誤りがあったと認め、イラク政策の責任者であったラムズフェルド国防長官を更迭することになった。

 2008年の政権末期には、サブプライムローンに端を発した世界同時金融不況へも、効果的な対応が取れず、共和党の後継大統領候補をジョン・マケインとしたが、ブッシュの不人気が影響し、民主党候補のバラク・オバマに敗れることになった。2期目のブッシュ大統領は、これといった実績にも乏しく、多大な財政赤字を残したまま、2009年1月に任期満了で退任する。

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