2022年1月20日木曜日

【アメリカの歴史】11.ウィルソンと第一次世界大戦 (1914年〜1918年)

【アメリカの歴史】11.ウィルソンと第一次世界大戦 (1914年〜1918年)


 1912年、民主党は大統領候補に「ウッドロー・ウィルソン」を指名し、ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。一方の共和党はウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトが対立し分裂、その結果、ウィルソンが大統領選に勝利した。

 ウィルソンは「ニュー・フリーダム」と呼ばれる進歩主義的国内改革を実行し、高率の関税を引き下げ、連邦準備法、連邦取引法、クレイトン法、農業信用法および1913年歳入法などを進めるなど、経済的な法制を整えた。また外交では、共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張した。しかし実態は変わらず、中南米諸国に強権的な介入をした。

 ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発したが、アメリカ合衆国の中立の立場を表明して、 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に結びつけた。しかし実際には、連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、決して中立の立場を守ったわけではない。

 これに対抗したドイツの潜水艦による、イギリス船籍の豪華客船ルシタニア号撃沈事件や、ドイツの秘密工作が暴露された「ツィンメルマン電報」事件などから、米国の国民感情が高まると、ウィルソンは1917年4月「ドイツへの宣戦」を布告する。

 ウィルソンは、南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債を発行して多額の戦費を調達するなど、急激に戦時体制を固めた。アメリカの参戦により戦況は一気に連合国側に傾き、第一次世界大戦末期の1918年1月に、ウィルソンは「十四ヵ条の平和原則」を発表する。疲弊しきったドイツ帝国は降伏し休戦協定を締結するに至った。

 ウィルソンはパリ講和会議に出席するためパリへ向かった。ウィルソンの「平和原則」で示した公正な態度のため、公正な調停を期待して熱狂的な歓迎を受けた。ウィルソンは、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に、講和会議の三巨頭として主要な案件に携わった。

 しかし十四ヵ条の平和原則は、それまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って組みなおすという内容だったため、会議参加国の既存利害からの反発を招いた。

 ウィルソンは、新外交の中心と位置づけた「国際連盟」を平和条約と不可分であると考え、熱心な主導者だった。他の戦勝国も、国際連盟創設自体は総論賛成としたが、それぞれに思惑があり、ひと筋縄ではいかなかった。

 1919年、最終的に国際連盟創設の提案が承認され、44か国が規約に署名した。ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績によりノーベル平和賞を受賞した。しかしそのアメリカ合衆国は、モンロー主義を唱える議会の反対により、国際連盟には参加できなかった。

 国際連盟は世界平和に貢献する国際組織として期待されたが、その実効性には大きな欠陥があった。一つは、アメリカをはじめとした有力国の不在であり、敗戦国だったドイツはのちに脱退、誕生したばかりのソ連は除名された。常任理事国だった日本とイタリアも1930年代に脱退してしまった。

 そして、国際連盟は全会一致の法則を採ったため、一国でも反対すれば重要な事項であっても何も決められず、迅速に有効な対応が取れなかった。さらに、国際連盟は軍事力が行使できず、有効な制裁手段がなかったため、国際連盟は単なる「話し合いの場」でしかなかった。

 ドイツともっとも激しい戦闘を展開した隣国フランスのクレマンソーは、敗戦国ドイツが二度と立ち上がれないような苛烈とも言える賠償を求め、穏便に調停を試みるウィルソンと対立した。結局、フランスの要望が通り、戦後その負担に耐えかねたドイツ国民の不満は、ヒトラーのナチスの勃興を支えることになった。

 第一次大戦で、ヨーロッパの列強は大きな損失を被って国力を落としたが、アメリカは直接の戦場にはならず、ヨーロッパへの武器や物質の供給で未曾有の経済的繁栄を迎え、世界の舞台の中心に躍り出ることになった。

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